さつきのきろくーや

記録を残しておくところ

もし、明日世界が終わったら?

風が少し冷たい日もありますが、着々と春の訪れを感じる日々がふえてきました。

先日(といっても、この文を書いたのは2月の半ばですが)人と昼下がり散歩をしていると、八分咲きの梅の木の枝に花の蜜を頂いてる最中のメジロを目撃しました。柔らかくて暖かい日差しが静かな住宅街をぽかぽかと暖めるような、そんな平穏な毎日が続けば良いのにな、と平和な空気感に癒されました。

同時にスギ花粉もその魔の手を伸ばし始めました。ここさえ乗り切ってしまえば大好きな季節になりますが、世界平和の為にも、スギ花粉には終わって頂きたいものです。

もしかしたら、スギ花粉はある意味人類にとって共通の敵、いわば必要悪的な存在なのかもしれません。花粉ビジネス、花粉症によってぐるぐるとまわる花粉経済。病気すらも人間に食い潰されてしまうとなると、子孫を残すために猛威を奮っている花粉が少し可哀想に思えます。

おまけに今年はコロナが大活躍して、花粉経済どころではありません。あまりにもスギ花粉が哀れに思えてきました。可哀想なので人間の世界から消えた方が、花粉も幸せだよ。

 

さて、今回はいただいたお題を消化する記事です。

日々の記録というよりも、私の気持ちや考え方といった漠然とした内容になっています。

「春の陽気に浮かれた、脳みそハッピーなアカウントがなんか難しいこと考えてるな、馬鹿め。」といった心持ちで、読んでくださったら幸いです。

 

「明日世界が終わったら」

 

かつて栄えた百貨店の屋上にある遊園地が閉鎖していくように、地元で愛されていたお肉屋さんが跡継ぎがいないために閉店するように、国民的アイドルが引退するように、何事にも「はじまり」があれば「終わり」があります。

好きな音楽も、好きな絵師も、推しているアイドルや実況者やYouTuberも、かたちあるものも、輪郭が曖昧な人間関係も、色とりどりの楽しい時間や思い出も、長く長く延命することはできます。けれど悲しいことにいつかは終わってしまうものです。

私のようなオタクにとって、コンテンツが1つ終わるだけで「世界が終わった」こととだいたい同義になります。

アニメがワンクール終わってしまえば、彼らの歩む人生を眺めることが出来なくなるのならば、彼らの人生はそこで更新されないのです。彼らの人生はそこで終わり、サービスは終了しているのです。

だからこそ「推しは推せる時に常に推せ」なのです。

コンテンツが終わってしまうように、日本というコンテンツも、地球というコンテンツも、宇宙というコンテンツも(きっと)いつかは終わってしまいます。

別れはいつも突然やってきます。もしかしたら明日、コロナが突然変異をし、何らかの作用で天変地異と大地震が同時に起き、23区の半分が海と一緒になり、政治はその機能を失い、治安が終わってヒャッハーな世界が到来。そして静かに荒廃してなんかあって宇宙も終わる......かもしれません。

いつ終わりが始まってもいいように、いつ別れが来てもいいように、私はいつだって常にコンテンツを愛しています。推しキャラも、好きな作品も、趣味も、楽しい時間も、常に全力で楽しんで常に誰よりも優勝していたいのです。

過去を振り返って後悔する時間や未来を考えて不安になる時間も、たまには必要な時間ではあります。冷静になって答えが見えない思案をひたすら繰り返す時間も私は大好きです。それはそれで有意義な時間なのです。

が!

なるべく前向きに顔を上げて、その時の自分が後悔しない選択を選んで、最後に「楽しかった!」と満足した気持ちで悔いなく終わりを迎えたい。

 

というのが私の理想の「世界の終わりの迎え方」です。 

 

最後に「明日世界が終わります。」と伝えられた時の私の行動を想像して、今回の着地点とさせていただきます。

 

まず、何らかのSNSで「明日世界が終わる」旨を知ります。Twitterはきっと「#世界滅亡」とか「#さよなら世界」とかがランクインして、今までの大予言がバズるでしょう。

そういった流行にのった情報を眺めながら「明日世界が終わるらしい!やった〜!!」と冗談を漏らして、なんでもない一日を過ごします。

 

キャラ付けのされていない、いてもいなくても変わらないような、モブとして、私は人生の終わりを迎えていくのでしょう。